2026年10月09日自然が主―三つの景色を、樽の傍らから

「神はサイコロを振らない」
量子論をめぐってアインシュタインが述べた、この言葉を入り口に、私は奈良漬づくりの中に浮かぶ景色を綴ってきました。
第一部では、平均律に重ねて、原料を確かめ、漬ける条件を整える仕事を。
第二部では、複数の旋律が重なるポリフォニーに重ねて、野菜、酒粕、微生物、時間、そして人の手が関わり合う姿を。
顕微鏡に映る乳酸菌が、五線譜の上の音符のように見えたこと。それは、半世紀にわたり樽と向き合う日々のなかで、私の中にふと浮かんだイメージでした。
そして第三部では、その音楽を生み出す自然そのものに、思いを向けたいと思います。
人間が発酵の仕組みを知る、はるか以前から、熟した果実では酵母などの微生物が糖をアルコールへと変える「アルコール発酵」が起きていました。
そうした果実を食べてきた霊長類の祖先と、私たち人間のアルコールへの関心には、つながりがあるのではないか。
カリフォルニア大学バークレー校のロバート・ダドリー氏が提唱した「酔っぱらい猿仮説」は、そのような可能性を考えるものです。
森に実り、地面に落ち、やがて姿を変えていく果実。
そこに働く、目に見えない小さな生命。
この仮説に触れたとき、人間が発酵を利用するようになるずっと前から、自然はその仕事を続けていたのだと、あらためて感じました。
発酵も、熟成も、人間が一から生み出したものではありません。
私たちは自然に備わっていた働きに気づき、暮らしのなかで生かす術を、長い時間をかけて身につけてきたのでしょう。
アインシュタインは、神を信じるかと問われた際、存在するものの秩序ある調和に現れる「スピノザの神」を信じる、という趣旨の返答をしています。
スピノザの「神即自然」。
神と自然を別々のものとして捉えず、私たち人間も、その自然の一部として考える思想です。
その言葉に、私は、日々の奈良漬づくりにも通じるものを感じます。
自然には秩序がある。
けれども、その働きのすべてを、私たちが読みきれるわけではありません。
同じように条件を整えても、原料の状態や季節の移ろいによって、樽の中の変化には違いが生まれます。
昨日までの経験が、今日の変化を見極める助けになる。
それでも、樽を開けるたびに、新しく教えられることがあります。
私たちの目には、その小さな違いが「ゆらぎ」として映ります。
それが自然の奥深い秩序の表れなのか、まだ知らない働きによるものなのか。
その答えを、私は簡単には決められません。
ただ、樽の前にいると、ときに、見えないサイコロの出目を待っているような気持ちになるのです。
だからこそ、原料を確かめ、条件を整え、微生物の働きや素材の変化を見守る。
必要な手をかけながら、熟成を待つ。
受け継いできた技術と経験は、そのためにあります。
奈良の気候、野菜や酒粕、目に見えない微生物、そして時間。
私たちの仕事も、その大きな営みの中にあります。
五線譜を整え、重なり合う旋律に耳を澄ませながら、まだ知らない響きを受け取る。
出る目をすべて見通せなくても、今日かけるべき手はある。
半世紀、奈良漬の樽と向き合ってきた、一人の漬物屋の親父です。
物理学の専門的な知見もなく、物理や科学を語る資格など微塵もないことは、十分に承知しています。
しかし、私は感じるのです。
樽の中の小さな変化を見つめていると、ときに、自然がそっとサイコロを振っているようにも思えることがあります。
これは、日々の仕事のなかで、ふと浮かぶ私なりの感覚です。
自然が主であり、私たちは、奈良の自然の力が味を生み出していく、その大きな働きの傍らで、少しばかり手を添えさせてもらっているのではないか。
今は、そんなふうに思っています。


